私とPerfume

2015年12月12日土曜日。こたつで暖を取りながらMacbook Airを開いた。何か聴きながらブログでも書くかとYoutubeにアクセスすると「あなたへのオススメ」にPerfumeの動画が出てきた。のっちのベルトが取れてしまうけれどそのまま踊り続けるというものだ。なんとなく気になったので観てしまった。Perfumeの動画を観るのは久しぶりだ。Pick Me UpのMVが出た時以来だと思う。その流れでなんとなく避けていたSTAR TRAINのMVを観た。正直楽曲を聴くのも初めてだった。

 

私とPerfumeが出会ったのは、私がまだ高校3年生だった冬だ。受験勉強も佳境に差し掛かっていたときに、勧められてハマった。受験生だった私にDream Fighterは響いた。大学生になって初めて行ったアーティストのライブがPerfumeの直角二等辺三角形ツアーの大阪城ホールだった。2009年10月10日。あまりも感動的だったのでメールアドレスにして、Perfumeが言った「夢を絶対に諦めないで」という言葉を忘れないようにした。そのあとTwitterでPerfumeクラスタの人と仲良くなり、オフ会にも参加しファンクラブにも入り何度もライブに行った。

しかし、その後Perfumeクラスタから離れて私とPerfumeの距離も開いてしまった。PerfumeもPerfumeクラスタも何も嫌いになっていない。けれど、私はPerfumeのおかげで世界を知った。クラブミュージックを知り、大きな世界へと飛び込んだ。沢山の音楽と時間を過ごした。沢山の人と時間を過ごした。シングルもSweet Refrainはレンタルしてしまった。ライブDVDも買ってない。最後に行ったライブはLEVEL3のライブだ。

映画が出たのは勿論知っていた。Twitterでは友人がライブに行って映画が最高だったことを語っていた。

今の私はPerfumeの映画を観ていいのか?と自問していた。なんとなく観ることに抵抗があった。ごめんね、という気持ちがあった。今の私はPerfumeに何もしていないよ、それなのにPerfumeが頑張っている姿を観て泣いて「素晴らしい映画だった」なんて手を叩いて勝手に感動してそんなのでいいのかと。Perfumeに元気を貰うだけ貰って自分は何もしないのかと。

それだけではない。私は今年に入ってから音楽ともアニメとも人ともTwitterとも全てと距離を取っている。自分の生活と自分の将来を考えて今を生きるのに精一杯だ。特に私の去年は散々だったと思う。大切な人を傷つけて色んな人に罵倒されてていただろう。その傷跡は今も感じるし、そのせいで生活が沢山変わってしまったと思う。極めつけに仕事でもつらいことがあった。上司が言った「それでも常に前を向いていなくちゃいけない」という言葉がズンと心に突き刺さる。

私の心はぐちゃぐちゃで何も頑張れていなくて日々の生活を穏やかに過ごそうとそれだけに集中した結果、沢山の好きなものを置き去りにしてしまっている。少しずつ削ってお金だって貯めなきゃと思い、今日までSTAR TRAINを買っていなかった。

そんな中で聴いたSTAR TRAINだった。私にはこんなに色んなことがあって、初めてPerfumeに会ったときとだいぶ変わってしまった。それなのに、彼女たちは。彼女たちは変わらずに真っ直ぐで、変わらない輝きでそこにいた。ああ、私がダメダメだったこの数年も彼女たちは輝き続けて頑張り続けてきたんだなと思うと、涙がこぼれていた。そして、サビの歌詞が歌われたとき私の心臓をぎゅっと掴まれた気持ちなった。

” I don’t want anything いつだって今が 常にスタートライン”

なんてことを歌うの。こんなに頑張っているのに何もいらないなんて歌うの。ここまで来ているのに、まだスタートラインなんて歌うの。あまりにも純粋無垢で眩しすぎて自分が恥ずかしくなってつらくなってしまった。

私はいつだって何かを欲して、我儘で傲慢で嫉妬深くて悲しんでいて人に求めていた。気づいて悔やんで自分を責めて、責めることで満足して、過去に囚われていた。

それでも、いやだからこそ、彼女たちは私の背中をまた押してくれた。2009年10月10日のように。悩む必要なんて何もない。また会いに行けばいい。変わってしまってもいい。失敗してもいい。愛は人それぞれで、私だってまたスタートラインに立っただけだ。

まだ映画は観れるのだろうかと調べたらまだやっているところが数か所あった。明後日はちょうどお休みをいただいている。遅くなってごめんね、会いに行くよ。

 

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アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

心はどこにあるのだろうと思った。ふと、顔をあげるとサラリーマンが吊革につかまっている。ガタンゴトン、と揺れる電車からは壁しか見えない。突如として現れた日常は少しだけ遠く思えた。

目線をiPhoneに向けるとそこにはその世界があった。灰色に飲み込まれていく。日常から再び画面の中に吸い込まれる。電子文書になっても小説の世界に自分がいるような感覚は変わらなかった。その世界では、人間以外の生き物がほとんど息絶え、ほとんどの人間は火星に住んでおり、人間そっくりのアンドロイドが自由を求めていた。

心はどこにあるんだろうと思った。人間が持つとされる心は一体何なんだろうか、と。

広大な宇宙のほんのかすかな点ほどの地球に住む我々はただの生物でしかない。自分が人間であるから人間は特別であるように感じるが、単なる生物でありいつかは死に絶えていく。他の生物のように。星が生まれて消えていくように。その人間の内部にあるとされる心は本当に特別なものなのだろうか。その世界の人間はどうやらそのように思っている節があった。しかし、人間の仕組みというものはきちんとしたプログラムのようなものが脳にあるのだ。では、アンドロイドは?

少し怖くなった。自分の心が信じられなくなりそうだった。ガタンゴトンと揺れる電車で自分だけ置いてきぼりになっていく。皆が当たり前のように会社に向かっている。

アンドロイドは冷酷だった。そしてあまりにも人間らしさがあった。私はアンドロイドのレイチェルを思った。”自分がアンドロイドだと分かって生きるのはどんな気持ちだろう”。そう考えると寒気がした。私にはわからない。自然に作られたものと、それを再現した人工物の違いが。まるで心は神様がくれたもののようにどこかで感じているのかもしれない。

アンドロイドは、どうやら共感が難しいらしい。誰かがどう思うだろうとか、自分がその立場だったとしたら同じように思うだとか、そういったことを考えられない様子だった。よくある”他人の嫌がることはよしましょう”のようなことが不可能だった。

私には人工物より自然に作られたものが尊いと感じるこの気持ちがわからない。完全に人間を再現したらそれは人間じゃないのか。何が違うんだ。それでも、アンドロイドの気持ちを考えるととてつもなくつらい気持ちに襲われる。

きっと我々は心が”作られたもの”だと思いたくないのだ。心とは自然に湧き上がるような絶対不可侵の操れないものであり、だからこそ大切なものなのだ。それが、作られるようなことがあってはならない。作られてしまったらそれは人を操れることになってしまう。そんなことがあってはならない。人間の自由が奪われてしまう。きっとアンドロイドもそれがわかっていた。

“感じる”という安心感が感じられないアンドロイドの胸の内はどんな様子なのだろう。心がなかったことがないからわからない。心がないことはひどく恐ろしい。死んだときどうなるのかと考えるのと似ている。

電車を降りた。人間らしく人間でいるため今日も働くか、と会社へと歩き出した。雨が降っていた。ああ、雨は嫌だなと思い傘をさし、ふとアンドロイドのことを思い、涙した。この涙一滴は私の心から流れ出た一滴のような気がした。

私の心はここにあった。



そして、アンドロイドが電気羊の夢を見るかどうかはわからない。アンドロイドは私が涙することもわからないのであろう。例えアンドロイドだったとしたらどう感じるのだろうかと考えてつらくなっても、アンドロイド自身がそれをしない。皮肉にも、”アンドロイドだったとしたらそれはつらかろう”と感じることこそが、アンドロイドと人間の違いを浮き彫りにしていた。

しかし、本当にそうだろうか?本当にアンドロイドは共感できないのだろうか。私は、アンドロイドに電気羊の夢を見て欲しかった。

私がアンドロイドだったら電気羊の夢を見たい。私の心がそう言っていた。